編成や運行のおもしろさ

      

駿遠線 直通列車の牽引車が代わっていた!

ポスター(2016年) ポスター(2016年)

第12回(2015年)のポスターは、静岡鉄道駿遠線の2枚。左は新横須賀駅(1961年夏)、右は新三俣駅(1962年夏)です。
 デザイナーのKさんとしては、12回目にもなるので、そろそろ長大な路線で有名な静岡あたりが良いと思っていたとのこと。どちらも、模型で再現したくなるシーンですね。
 自社工場製の機関車が途中駅で給水している姿は、いかにも長距離を走るこの鉄道らしいですが、元画像は 過去に紹介 しています。右も 別のテーマで紹介 したことがあるのですが、 撮影当日の画像を精査し撮影者の記憶と突き合わせると、また新たな発見があったので、その話題をとりあげましょう。

静岡鉄道駿遠線は、客扱いをしている軽便鉄道としては当時全国で最も長い路線がありましたが、元は大正時代の初めに建設された 東側の藤相鉄道と西側の中遠鉄道という2つの鉄道だったのが戦時中に合併。戦後になって中間部分(堀野新田~新三俣間)を繋いで一路線としたものです。 しかし、中間部の線路は御前崎に近い人口希薄な砂地に敷かれており、列車の本数も多くありませんでした。 この部分は1964年に廃止され、東側と西側は切り離されてしまいますが、それ以前でも、藤枝から袋井まで走る直通列車は既に1日数本しかなかったのです。

地頭方から新三俣へ)

 当時高校3年生だった撮影者は家族と離れ下宿生活をしており、夏休み帰省する途中、藤枝で途中下車して袋井まで全線に乗ってみました。 藤枝~袋井間は東海道線なら37.8㎞。それをわざわざ60㎞を越す駿遠線経由で、しかも途中何か所かで下車して撮影しながら踏破したわけです。
 写真から当日の行動を推定すると、藤枝付近で何本か列車を撮影した後、区間列車で相良へ。撮影後、キハD6が客車1輌を牽く区間列車で地頭方まで。 鄙びた地頭方の駅で時間をつぶし次の列車を待つと、やってきたのはDB608が牽引する客車列車。右の写真が走行中に撮った1枚ですが、撮影地点は定かでありません。

当時の時刻表によれば昼間の時間帯に中間部を走る直通列車は2本だけ。新三俣駅14:06発の袋井行と14:08発の新藤枝行が離合することになっていました。
 新三俣に着いて撮ったのが左の写真。キハD18が先頭に立つ右の列車が袋井行。左のキハ13が堀野新田、地頭方を経由して新藤枝に向かいます。 線路を横断している人たちは、袋井から来たキハ13に乗車していて、ここで降りたのだと思われます。

新三俣駅1
藤枝行(左)と袋井行き(右)が離合するように見える 駿遠線新三俣駅 1962年8月 撮影=夢遊仙人

あれ?DB608はどこへ行っちゃったの、と思う方は下の写真を見てください。上写真ではキハD18とキハ13が離合するように見えていますが、実は袋井行の直通列車を牽引していたDB608は ここで切り離されて単機で側線に入り、客車はキハD18の後ろに連結されたようです。撮影者はその数分間に線路へ降りて写真を撮っていたのですね。

新三俣駅2
直通列車を牽いてきたDB608(左)、藤枝行きキハ13(左)と袋井行きキハD18(右) 新三俣駅 1962年8月 撮影=夢遊仙人

 中間部分が廃止された後、新三俣~袋井間は1967年秋まで残っていたので、新三俣駅の写真自体はそれほど珍しくありません。また、藤枝付近では1970年まで走っており、 末期のダイヤと車輌運用は『静岡鉄道駿遠線の記録 1968~1970』(長門克己・著 SHIN企画発行)で紹介されています。 しかし、新藤枝~袋井の全線が生きていた時代の車輌運用は資料が残されていないようです。この日、直通列車の牽引が機関車からディーゼルカーに引き継がれたのは 普段通りの運用だったのかどうか不明で、何か特別な事情があったのかもしれません。いずれにしても、なかなか興味深く貴重な記録ではないでしょうか。

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