線路の楽しさ
タタカ線終点付近から阿里山方向を望む
1960年代末にタタカ線の終点となっていた集材地は、現在「台18号線 阿里山公路」という道路の
「東埔山荘」付近にあります。谷間を見下ろすと、彼方に見えるのが直線距離で10kmほど離れた阿里山の山並みです。
昔と違って周囲に木が生い茂り見通しの良い場所がありませんが、稜線の形はまったく同じであることが
上下の画像を見比べると分かります。
中央の最も高い山が大塔山で、そこから眠月、烏松坑へと向かう塔山線は稜線の裏側の少し低いところを走っています。
上の写真で眼前に深く刻まれている谷は「和社溪」という名で、新高山の北側の斜面から流れ出る多数の川を集めて「陳有蘭溪」となり、
北から流れてくる「濁水溪」に合流した後、西に向きを変えて海へと流れていきます。
右の地図にある矢印が上の写真の撮影方向ですが、正面やや右に見える谷底は海抜1500mより低く、
この地点と阿里山をまっすぐに結ぶと10kmほどの間に1000mも下ってまた1000m上らねばなりません。
したがって、鉄道は南の尾根沿いに谷を大きく迂回し、谷間に延びるいくつもの尾根を等高線に沿って
1つ1つていねいにめぐるように建設されているのです。
阿里山を出たタタカ線の列車は、南へ延びる稜線の向こう側を進み、トンネルをくぐって南斜面に出て8km地点の自忠に至ります。
そこで稜線を北側に乗り越し「和社溪」の谷上部に出て、さらに東へ向かって12km、奥地で伐採した原木を運び出すためにこの地点まで通っていました。
実に素晴らしい景観ですが、驚くのはこの塔山線やタタカ線が海抜2000mを越す尾根のすぐ下に敷かれていたことです。 『阿里山森林鉄道1966-1968』でも解説をしている通り、この鉄道の建設に携わった技術者は、北米ロッキー山中の森林鉄道と同じように 険しい谷の上部に線路を延ばし、シェイ式機関車で急勾配を克服し、伐り倒した太い丸太を蒸気集材機で谷底から引き上げる 当時としては最先端の方式を採用したのです。 この鉄道は明治の末から昭和初期にかけて日本人が設計・施工したものですが、日本内地の森林鉄道には、このような例はありませんでした。