今月の写真

「今月の写真」では、南軽出版局関係者が撮影した、軽便の魅力に溢れるシーンを公開します。ここで掲載したものは、翌月には再分類して「軽便の魅力」ページの画像倉庫にしまっていきます。 隔週で更新していますが、しばらくの間、阿里山森林鉄道の今昔を追うシリーズを続ける予定です。

阿里山での機械集材

タタカ線は昭和初期に建設されたものですが、阿里山につくられた最初の林場線は、北へ向かう塔山線(いま台湾では眠月線と呼んでいる)でした。 大正時代の初めにつくられたこの路線もまた、北へ延びる稜線のすぐ下に敷かれています。

白い点線が塔山線の推定位置、青い線は稜線で左が北。Googl Earthの画像より作成

右の図は塔山線の地形を示したもので、写真と違って上が北になっています。大塔山の尾根をトンネルを抜けた地点にあった塔山駅(大瀧溪線の分岐点)は、 海抜2346mで戦前の日本の鉄道では最高地点でした。戦前戦後を通じて、内地の森林鉄道でこのような高いところに動力車が走り、 稜線直下を水平に長距離移動するような例はありません。 ほとんどの森林鉄道は、谷を下流から上流へと遡上して行くものだったのです。
 なぜ、ここ阿里山でこのような森林鉄道がつくられたのかという理由は、谷の急峻な地形にあります。伐り倒した原木を谷に落とし、 川の流れを利用して集めていく日本内地の伝統的な集運材法では、塔山の尾根から西(上の写真では手前)に下る谷沿いに流送しよう としても、岩場と急流に阻まれ、割れたり傷ついたりして、安定した搬出ができませんでした。
 海抜1800mから上に生えているヒノキの巨木を運び出すために採用されたのが、当時アメリカで発達していた架線集材と森林鉄道の技術です。 尾根筋に線路を延ばし、伐った丸太は蒸気集材機を使って斜面の上に引き上げ、勾配に強いシェイ式機関車で牽引する方式で、 その後の日本で普及した荷を下ろす架線集材システムとは根本的に発想の異なるものでした。明治37年、日本に動力車を使う森林鉄道がまだ一つもなかった時代に、 このような新しい技術の採用を進めたのが、河合鈰太郎(かわい・したろう)という学者でした。オーストリア統治下のボスニアでドイツ資本による 森林開発の実例を見た河合は、阿里山開発には最新のアメリカの技術を導入すべきだと考え、台湾の民政長官であった後藤新平の後ろ盾を得て、 我国初の機械集材と機械運材、機械製材の一貫したシステムを築き上げたのです。

 河合の仕事については、南軽出版局の『阿里山森林鉄道1966-1968』で解説をしています。機械力による集材は、彼の発案によって 阿里山で行われたものが日本で最初の試みでした。右の図が、斜面を引き上げる架線集材の方法を示したもので、荷を引き上げるため 強力な蒸気集材機が使われます。
 右上の地図では薄くて少し分かりにくいのですが、塔山線より低いところに「眠月下線」という集材用の線路があります。 ここでガソリン機関車が架線の下端まで丸太を牽いて、蒸気集材機で塔山線の線路脇まで引き上げ、シェイの牽く貨車に積み込んでいました。 タタカ線とその支線でも同様に、谷から引き上げる集材法が使われたのが阿里山の林場線の特徴です。

北米で多く使われた架線の索張り方式。伐木運材図説より

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