車両のおもしろさ
機械集材とシェイを導入した河合鈰太郎
明治期の日本の林業は、伐採から製材までほとんどを人力に頼るものでした。機械といっても、鋼索に荷をかけて重力で下ろす程度の仕掛けだったのです。 ところが、前回説明したように阿里山で使われた集材法は、強力な蒸気集材機を使って谷底から尾根に向かって丸太を引き上げるという画期的なものでした。 河合鈰太郎(シタロウ)は、それを導入するためアメリカに渡り買い付け交渉を行います。その滞在時に書かれたと思われるメモが 東京大学の森林利用学教室に残っていますが、ニューヨークのホテルの便箋に集材機のドラムとワイヤの張り方が描かれています。 それまで我国では誰も知らなかった新しい技術を、絵に描いて覚えたのでしょう。
集材機で丸太を吊ったワイヤを引く架線集材は、阿里山から日本内地に伝わりました。ですから河合は
日本の林業機械化を最も初期に進めた功労者なのですが、その名前は知られていません。どうやら
台湾での河合の仕事を快く思わない人物がいたことが原因のようで、河合の没後に行われた明治期を回顧する座談会で、
とある帝室林野局の重鎮が河合と阿里山鉄道のことを激しく非難した発言が記録に残っているのです。
その後の帝室林野局関係者が河合の功績を書くのをためらったとしても無理はない、と思える口調でした。
河合は昭和6年に亡くなっており、昭和10年代になると日米関係の悪化により北米由来の林業技術が顧みられなくなったことも、
その名が語られなくなった背景にあるかもしれません。戦後に書かれた林業技術史の本では、阿里山での架線集材のことに触れていても、
河合が導入に力を尽くしたことは書かれていないのです。
しかし、古い証言を見ていくと、河合は阿里山開発だけでなく内地の森林鉄道の建設にも関与した様子がうかがえます。
我国で動力車を最初に使用したのは津軽森林鉄道ですが、この鉄道の建設を担ったのは河合の教え子である
二宮英雄という技師でした。
津軽で米国ボールドウィン製蒸気機関車とライマ製のシェイ・ギヤード式機関車が試用されたことは有名ですが、その選定にも
河合が関わっていた可能性があります。明治の末にシェイ式機関車について知っていた林業関係者は皆無に近かったはずですが、
河合は阿里山の急勾配を克服するためシェイの導入を進めています。それだけでなく、ハイスラーやクライマックスのような
特殊な機構を持つ機関車が、北米の森林鉄道で活躍していることも知っていました。
右の図は「伐木運材図説」(関谷文彦著・昭和16年)に掲載されているシェイとハイスラーの機構解説図ですが、出典は
「運材及森林工学に関する図集」という河合の作成したものなのです。
この図集は同書の参考文献一覧によれば「未公刊」とされており、現物は確認できていません。しかし、津軽森林鉄道の開通から32年、 阿里山森林鉄道の開通から29年経っても、日本国内にその図集以外にシェイの適当な参考書が存在していなかったという事実は、 河合鈰太郎が「日本の林業機械化の父」であるのみならず、「日本の森林鉄道の父」であった可能性を強く示唆しているように思えます。