人間と鉄道

      

1969年ダージリンのクルマ事情(その2)

午後の列車がカルシャン止まりになるとダージリンに向かうのはジープしかなく、ぞろぞろと山道を走りだしていきます。 すぐに暗闇となり、ゆっくりゴトゴト走っていくのですが、よく見ると暗い夜道なのにヘッドライトを点けていない。理由を聞くと バッテリーがもったいないから使わないのだという。どのジープもそうでした。 月明りで前がなんとか見えているが、ヒマラヤスギの梢の陰が走り過ぎて行き、その先に見えるほの青い夜空が強く印象に残る50年前の旅の記憶です。

ジープ
DHRの列車がグーム駅に到着。列車はこの後、分岐を右に入り右端に見えるホームに停車する。1969年。撮影=杉行夫

1969年、ダージリン鉄道沿いの道を走る自動車は圧倒的にジープ型で自家用車は少なく、主にタクシーや相乗りバスとして使われていました。 上の写真は山を登る列車がグーム駅に到着するところですが、道路を隔てた左に2台。左の写真でも、道路の反対側に停車中。こんなふうに、鉄道の写真を撮っていると いつの間にかジープが写り込んでいるくらい、数多く走っていたのです。
 『ダージリン・ヒマラヤン鉄道&マテラン登山鉄道』 では、27p、36p、40-41p、49p上、63p中の写真に写っています。 このうち、27pのチュンバティ・ループ内のジープは撮影のためにチャーターしたものですが。
 ジープは、元々アメリカ陸軍が第二次大戦中に民間会社に発注した四輪駆動車で、ウィリスほか3社で製造した軍用車のブランド。 インドでは、マヒンドラ社が1949年にウィリスからライセンスを得て現地生産を開始し、初期型から順次改良型や派生機種を作り続けています。 デリーなどの都市では、ヒンドゥスタン社のアンバサダーが多く走っていましたが、ここダージリン近辺では極めて少ししか見られませんでした。 狭い山路を走るには少し大きすぎる印象がありますし、急坂が続くので登攀力があり人や荷物を多く運べるジープやランドローヴァーの方が好まれたのかも しれません。

道端のジープ ジープのタクシー
上)ダージリンからグームへ下る道で。撮影=杉行夫
下)側面に大きく「TAXI」の看板。ダージリン駅。撮影=柳一世

インドは輸入制限が強かったせいで純正の輸入車などはまず少なく、ほとんどどのモデルも現地生産のノックダウン車か それのコピーの自国製模造車でした。当然、ジープ以外もモーリス、オースチンやランドローバー等の古いモデルの系統が多くなります。

英米のメーカー由来のクルマが多い中で、この写真はちょっと異色。屋根に荷物を積みトレーラーを牽いているのは、シトロエンのアミ6ブレークというクルマです。 ダージリンを含む西ベンガル州のナンバーは「WB」か「WG」で始まるものでしたが、このナンバーは明らかにに他の州か、他国と思われます。 たくさんの荷物を携えて移動している外国(おそらくフランス)の旅行者か、引越し中の外交官ではないでしょうか。
 列車の飛び乗りシーンを撮影しようとして偶然記録された、きわめて珍しい例だと考えられます。

シトロエン
子どもが飛び乗りで遊んでいる列車と並走する旅行者か外交官のクルマ。1969年。撮影=杉行夫

ダージリン近辺はヒルステーションと呼ばれ避暑の為に上層の人々がやってくる場所なのですが、そういうリッチな人はジープには乗りません。 この地に多いネパール人やブティア人、レプチャ人などは、乗合自動車を利用し自家用車など持っていません。 大学教授の女性が地元民を顎で使ってアンバサダーで走り去り、カーストや差別の存在を強く感じさせる一コマもありました。
 37年後の2006年に、ダージリンからガントックそしてブータンに抜ける旅の機会を得ました。再び訪れたダージリンの鉄道光景は 家や樹木が大きく増えてすっかり変わっていましたが、多く走っているのは民生用のジープ型という事情は同じでした。 お隣りシッキム州の山岳村では、かつてのダージリン同様、ジープが貨客両用で使われていましたが、ここで紹介したようなウィリスの初期モデルは もう走っておらず、古いマヒンドラ製が展示・保存してありました。

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