今月の写真
「今月の写真」では、南軽出版局関係者が撮影した、軽便の魅力に溢れるシーンを公開します。ここで掲載したものは、翌月には再分類して「軽便の魅力」ページの画像倉庫にしまっていきます。 当面は隔週の更新で、新刊の書籍の見どころや、軽便鉄道の魅力を掘り下げるシリーズを続ける予定です。
『阿里山森林鉄道1966-1968』の再版ができました (その5)

南軽出版局では、好評を得て残部僅少となっていた『阿里山森林鉄道1966-1968』の増刷をいたしました。
2017年に出版した同書については、当サイトで内容紹介をしていなかったのですが、
台湾博物館での展示に5点の写真が使用されていることもあり、この機会に改めて
この写真集と、阿里山森林鉄道についての紹介を何回か行なうことにしようと思います。
前回も取り上げたタタカ線の終点ですが、ここは以前に山火事があり、その昔にはもっと先まで線路が延びていた
と伝えられています。今回はそのあたりを追ってみましょう。
左の写真は、いちばん奥の集材側線にある集材柱ですが、明らかに焼けた跡が見られます。根元の部分は2本か、あるいは太い幹が裂けて2本になっているようで、 上部には同じくらいの太さの丸太がさらに2本束ねられ、数本のワイヤで地表に固定されています。
撮影者の杉行夫は、この最奥の集材側線のところからさらに1kmほど先へ探索を進め、その記録も残っています。右の2点は、その過程で撮影されたもので、
とくに左写真では枕木の跡とレールが残っており、かつては線路が敷かれていたことがハッキリわかります。
線路はこの先、東哺(トンボ)山と呼ばれる方面に延びていたはずです。杉行夫の証言によると「焼けて崩れたトンネルの跡が岩に埋まっていた」のだそうですが、
その写真は見つかっていません。山火事が起きる以前のタタカ線の様子を伝える写真も、残されていないようです。
そして、そのあたりから後方を振り返ると、下の写真のようにタタカ線の終点が一望できます。



写真の右下に小さく見えるのが、最初に紹介した集材柱。そこから左に延びているのが廃線跡。中央に光って見えているのが集材側線脇のヤードから登っていくトラックの道路で、
この道は急勾配で背後の斜面を登り切り、稜線を越えて新高山(玉山)方面へと続いています。直径が1m以上もあるような太い丸太は、この道をトラックで運ばれ
ここでログカーに積み込まれて、2500m下の貯木場へと運ばれていたのです。
海抜2500mを越える奥地での作業風景を生き生きと伝える『阿里山森林鉄道1966-1968』。まだご覧になっていない方は、是非この機会にお求めください。
また、この時代の阿里山の写真が大きく展示されている『臺灣林業鉄道』特別展は、台北の国立博物館の鉄道部パークで今年の10月15日まで開催中です。